NOAの小部屋

カテゴリ: 魂の一行詩-角川春樹


<角川春樹・スペシャルインタビュー>…3

人間であることをやめし海鼠かな
わが骨に雪降る夜の鉄格子
年逝くや獄に取つ手のない扉 ★
つじつまのあはぬ世朝寝してゐたり
かげろふや路地に真砂女の消えゆけり ★獄中にて、鈴木真砂女の訃報に接す
花は葉に真砂女が作るカレーの香

白玉やほとけに遠き女身とも
アハハハハ囚徒が笑ふ終戦日
日盛りを来たりし乳房冷たかり
四分の一の胃の腑や秋の暮           三浦病院にて胃癌手術
抱きしめて救へぬ人や草萌ゆる       三浦病院の癌患者
月の駅逝きたる人を数へをり
鳥雲に私を知らぬのはわたし ★
地球儀の日本が赤し建国日  ★

母坐るところに春の風があり ★
初ざくらこの世の音の雨の中
母の日の母が遠くで病みにけり
緑陰に人間といふ忘れ物 ★
石蕗咲くや父の遺せし母とをり ★
十薬の花誰からも愛されず
虚子の日に遠くをりさらに遠くをり

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*「不易と流行」を実感した

---マクドナルドの句も、回転寿司の句も、静かな句ですね。

角川_例えば二百年後の読者が読む場合、マクドナルドや回転寿司は、注釈がないと分からないだろうと思う。古川柳と同じで、その時代でなかったら分からない。
ただ、ここで詠んでいるのは、マクドナルドや回転寿司に行くことに憧れている自分なんです。
現実は、獄を出てきた今でも、マクドナルドには行ってないし、回転寿司にも行ってない。

---マクドナルドに行く時間はないですね。

角川_ないよ(笑)。

---詠んだ素材は流行でも、憧れという思いは不易である。

角川_そういうことです。芭蕉のいう「不易と流行」を思いました。
刑務所では削られたけど、削られることは分かっていた。理解できないだろうと思っていましたよ。普通の俳人もおそらく理解できないかもしれない。「河」の連衆でもね。
だけど、これは自分の境地だった。この二句ができてみて、間違いなく新しい自分だと思った。自分にとっての真実がある。つまり、憧れが真実なわけだ。
映画の書き割りじゃあるまいし、皓々と満月が出ていたとしても、明るい都会の中で「満月のマクドナルド」というものは、それ自体がリアリティとは結び付かない。でも、自分の心の世界では、まるで明かりを照らしているように満月が皓々と光った。しかもそれは都会でなければならない。
そこへたった一人で入っていくというイマジネーションが強烈にあった。

---活字への憧れもありましたね。

角川_所内の本は、お盆とお正月と連休の日だけは六冊、ふだんは三冊借りられて、一週間後に返さなければいけない。でも、漫画が多くて、読みたい本が少なかった。
差し入れてもらえる本は、雑誌を含めて月に三冊です。「河」が入ると、あと二冊しか入らない。きた本は、すべて隅々まで読みました。
切実な思いで活字を読んでいた自分としては、芥川賞の二作品、『蛇にピアス』と『蹴りたい背中』も、むさぼるように読みましたよ。

---俳句や俳句総合誌に関してはどうでしょうか。

角川_読んでないんです。興味がわかない。
俳壇に対して興味ないし、他の人の句集を一冊も読んでいない。読みたいという気が起きてこないんですよ。
自分にとって切実だったもの以上に、たとえ虚であったとしても、切実な思いを詠む俳人が見当たらないでしょう。
それでいて、実よりも虚の方が大きいというのは、自分の今の俳句観なんです。
俳句に対して、いま自分が興味を持っていることと、現俳壇で活躍している人たちが興味を持っていることには、大きな違いがありすぎるんじゃないか。
ほとんどの人がテクニックに走っている。
もっともチープな部分が見えるじゃない。

---作品にですか。

角川_俳句なんてものはね、十年もやればそこそこ上手くなりますよ。
技術は覚えるよ。鑑識眼があれば、その技術も見える。
でもその程度では、つまり技術だけの俳句では感動を呼ばないんですよ。
今も沢山の句集が出て、上手い句は沢山ありますよ。
それが自分の心に響くか響かないでしょう。


-文學の森「俳句界」2004年7月号より-


当時、句集を出版された際のご心境ですから、今は、多少変化された部分もあると思います。
それにしても、何故、マクドナルドの句が句集に…?と疑問があったのですが、このインタビューで謎が解けました!(by NOA)



<角川春樹・スペシャルインタビュー>…2

*憧れを句に託した*

角川_自分が憧れたのは、食と旅。かつて行った所を題材に、旅の句をたくさん詠みました。食に関する俳句もたくさんある。これは「憧れ」なんです。
また、父の源義忌でも、
雁来紅が窓より見えて秋燕忌 春樹
と詠みました。窓からは、紫苑など受刑者が植えた植物は見えるけど、かまつかがあったわけではない。

---女性を詠んだ句がありましたね。

角川_獄中離婚したときに、
五月憂し妻の手紙にSO LONG 春樹
と詠んだ。「これっきり、さようなら、SO LONG(永遠に)」という手紙が実際に来たのは四月だったけれど、季語を五月にした。
(※注※なぜ「五月憂し」の季語にされたのかを、あとがきに書かれていましたので、欄外に記しました。)

妻とはいっても、特定の人物というよりも、女性に対する憧れを俳句に託した。
数へ日の妻をまぶしく見て話す 春樹
とも、詠んだ。
八王子医療刑務所は看護婦がいるからまだいいけど、静岡刑務所に行ったら全く女性を見ないわけだ。眩しく見えたのは「実」です(笑)。

---憧れる気持ちを詠んだのですね。

角川_静岡刑務所に移ったあと、八王子医療刑務所に検査に行くんです。
移動のとき、マクドナルドや回転寿司の看板が見えた。それを見ながら、
満月やマクドナルドに入りゆく  春樹
という句を作りました。
俳句指導している人は、その句だけは会報に載せなかった。
けれども、私はこの句を気に入っていた。あと、
十六夜の回転寿司にゐてひとり  春樹
という句も気に入っている。現実には看板を見ただけなんだ。
検査に行ったのは、実際には7月。それを秋の句にした。
静岡刑務所に行ったときは7月19日で、戻り梅雨だった。
護送車に運ばれゆくや戻り梅雨  春樹
これは実の句。静岡に移って、病床にいなくてよくなっても、ほとんどは想裡の句、虚の句を作るしかない。刑務作業の句も作りました。
樽寿司の箱を作りし残暑かな  春樹
刑務作業では、私は最優秀に近い、五段階中ランク四だった。
ランク四は工場で数名しかいないんですよ。

---それは作業能力が高いということですね。

角川_きちんと刑務作業をして、誰からもクレームをつけられない状態に置かないとね。

-文學の森「俳句界」2004年7月号より-

※注※ 実際に別れの手紙が来たのは一昨年の四月。しかし、「五月憂し」のほうがいい。本当は、手紙がきて一週間は眠れなかったし、離婚が成立したのはそれから1年以上かかったけれど、自分の心では、手紙がきた時点で離婚が成立している。
全部吹っ切れる、いい機会だという思いは、そういう虚でこそ表現できる。
獄中では慈悲の心もひとつにあるけれど、そういう俳句の虚の真実が身に沁みてわかった。
(あとがきにかえて-より)

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‹海鼠の日›は、渾身の句集であると同時に、俳句観などがうかがえる非常に興味深い読み物でもあると思います。
少しだけですが抜粋しましたので、興味のある方はご覧いただけると幸いです。




還暦の春樹と申す海鼠かな 角川春樹


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活字と俳句へのプライドが支えた、獄中二年五か月三日間
<角川春樹・スペシャルインタビュー>…1

*俳句愛好家が増えた

角川_句会が月に一回あったんです。有季定型の句会でした。
初期の頃、指導者は(自分を)気付かなかったようで、句を直してくれていた(笑)。
記録に残しましたよ。例えば、
いつの日もおぼろの中に子との距離  春樹
この添削が「いつの日もおぼろの中や子等遠し」
句が全然違ってしまうし、季語としての「おぼろ」が、「子ら遠し」としてしまうと効かなくなってしまう。それから、
売れ残りたる風船の空があり  春樹
これも添削指導で、「売れ残りたる風船の空蒼し」とやられた(笑)。
元句のままで、空はもう青いでしょう。
売れ残った風船は赤だったり青だったり、黄色だったりもする。「空蒼し」の必要性はない。
雁ゆきて月光触るるばかりかな  春樹
といったら「月光に触るるばかりに雁わたる」と、こうですよ。

---句が死んでしまう。

角川_腹が立ってね。こんな句会でも、最初は苦笑するしかなくて、黙っていたんだ。
そのうちに、有季定型といいながら字余りはあるわ、季語をなくしてしまうわ……。
本当にたまりかねて、「季語がありませんよ」と、恐る恐る言いました。

---そういうことを言ってもいいのですか。

角川_いやいや、まずいですよ。刑務官が横にいるしね。
そういう発言は先生に対して礼を失することになる(笑)。
刑務所での句会は、先生に対してまず「礼!」で始まって、最後にまた「礼!」で、「ありがとうございました!」と言わなきゃいけない。
喋るときには手を挙げて、というのがあって、むこうも困っちゃってましたね。

---受刑者にまさか本格俳人がいるとは思わなかったのでしょう。

角川_そうそう。やがて、どうもおかしいと気付いたらしく、ある時点からは、ほとんどの句を会報に載せてもらうようになりました。
参考にするようにと他の囚人に言ったりしていましたよ。

---俳句を広めてこられたのですね。

角川_評論家の福田和也氏が、「角川さんが刑務所の句会に出たら、ヒクソン・グレーシーが登場するみたいなものだ」と言ってたんですよ。

---すごい強い格闘家で、四百戦無敗という伝説を誇っている人ですね。

角川_あ、そういう人なの。福田和也氏の言ってる意味が分からなかったんだけれどね。
私が作業していた工場の中でも、俳句を作る人が出てきて、それまでは俳句は人気がなかったのだけど、人数が増えた。
文化祭があって、句を出すんですよ。当然自信句を出すじゃないですか。
それが最初の年は銅賞なんですよ。金賞じゃなくて。
「えっ、こんな句が金賞!?」と目が点になるし、俺の句が銅賞?というのも目が点になった(笑)。
翌年の文化祭では銀賞。それもまたびっくり。
金賞の作品と自分の作品を比べるじゃない。なぜ銀賞なのか、勉強しなくちゃいけないからね(笑)。それで、
文化祭獄の銀賞貰ひけり  春樹
という句を作った。これは※実の部分だね。

(※前章で、事実に則した句ばかりではなく、刑務所内では虚の部分を多く詠んだ…という発言がありましたので、それを踏まえての「実の部分」という意味だと思います。)

-文學の森「俳句界」2004年7月号より-


この句集は、あとがきや解説が非常に面白かったです。
部分的にご紹介していきたいと思います。



*現代俳句の新しい波…ユリイカ  インタビュー【角川春樹】vol.3*
 
 

(編集部)-それは俳句に限らず、現代詩、短歌、あるいは小説も含めて文芸全体に対しても言えることだと思います。
 
角川-わたしは短歌も詩も作りますよ。『現代詩手帖』に発表したこともあるけども、自分は詩人としてぜったいに負けないと思っている。現代詩でもなんでもいつでも挑戦を受けますよ。
誰かの詩とわたしの作品をふたつ並べて、一般の好きなひとでもいいし、読書人でもいい、10人いてどちらを選ぶかと言ったら、10人が10人わたしの詩を選びますよ。ぜんぜん違う。
やっぱり相手に突き刺さらない詩では意味がない。いまの現代詩もやっぱり四畳半と同じですよ。相手は本質しか感じませんよ。
 
それでは、わたしはなぜ五七五といういちばんの最小詩形を選んだかというと、世界最小の詩形でありながら世界最強の器だと思っているからです。短歌も現代詩も問題じゃない。わずか五七五音でぜんぶ凌いでやると。
西脇順三郎が俳句の魅力について一言だけ言っている。
『短いからいい』、そのとおりですよ。彼は短詩もけっこう多くて、長い詩の間にパッと一行で短い詩を載せたりしている。
 
(編集部)-なるほど。五七五という器の持つある種の強さの理由を感じられたような気がします。そのたった17音の宇宙とも言うべきものにあらゆるものが込められているんですね。
 
角川-五七五、あるいは五七五七七になぜ相手に訴える力があるのかというと、歌というのはもともと「訴える」から来ているんです。これは折口信夫の説ですが、わたしは正しいと思う。
 
それをもっと原型まで遡ると、それこそスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』じゃないけども、岩を叩くとか神卸ろしの方法論としての物を打つという行為から始まっているんじゃないか、これは中上が言い出したことだけれど、大変な慧眼だと思った。
 
「打つ」ということが「訴える」になり、ひとの心を打つ「詩(=うた)」になっていったと。だからひとの心を打たないものは詩ではないんだと。
 
いまの現代詩を読んでいても緩いんだ。詩は言葉遊びじゃないし、退屈なんだよね。なんでこんなに詩が堕落したんだろうと思いますよ。
海外の詩人たちは本当にすごいなと思うものをいくらでも出しているのに、日本はなぜこんなにダメになっちゃったんだろう。
 
(編集部)-詩は小説とは違う意味での長さを得る、あるいは長短による効果をそれぞれに発揮することができると思いますが、一度それこそ一行という単位に至るまで切り詰めていったところで何が起こるかといのは、それはそれで向き合ってみるべきものではあるのかもしれません。
 
角川-わたしは思潮社の小田久郎さんに日本一行詩協会とタイアップしないかと言ったことがありますよ。いまは俳句と短歌しかないから、詩人たちが短詩、一行詩を書くように喚起していくことも大事なんじゃないかと言ったけど、実現していない。
現代詩と一行詩の違うところは、現代詩は大きな意味での交響楽みたいなことができるんですよ。起承転結の結は別としても、起承転という流れのなかで、しかも象徴詩として考えていく。
 
わたしは別に新しいことを言ってるわけじゃないんですよ。それに自分の主張と作品は完全に不即不離ですから、そうでなければこういう運動は起こせないですからね。「魂の一行詩」というのは、いままでの自分の生き方さえ変えざるを得ないほど相手に迫るものだけども、それでもその魅力には勝てずにいままでの結社とは決別してうちの結社に入るひとがいる。
 
自分がやってきたことはなんだったのか、小手先の方法論や存在論に縋っていただけではないのか、そういう思いの果てに本質に立ち返る瞬間を求めているわけです。
「魂の一行詩」はそれだけの力を持っているものなんです。
 
 
黒き蝶ゴッホの耳を殺(そ)ぎに来る 角川春樹
捕陀落(ふだらく)といふまぼろしに酔芙蓉

(かどかわ はるき 俳人)2011.9月7日、角川春樹事務所にて収録
※捕陀落(ふだらく)とはインド南岸にあるとされる観世音菩薩の住む聖地であり、その信仰は日本にも伝わった。 

 *現代俳句の新しい波…ユリイカ インタビュー【角川春樹】vol.2*
 
 

 
(編集部)ー形式としての方向論や概念を云々するというような観念的なことではなく、大局的なこと、本質的なものに対峙する必要があるということでしょうか。
 
角川-本質ですよ。それは古典をきっちり勉強していれば分かるはずなんだけど、それすらしていない。
たとえばいまの俳人は古典というと芭蕉だと思っている。
もっと伝統的なことから言えば、最低限『万葉集』ですよ。『万葉集』以前の歌謡まで遡らなくちゃいけない。
さらに遡ると今度はウル言語ということになる。それなのに、詩や言葉を紡ぐときにそこまで遡っていない。
 
磯田光一さんや中上健次は、角川春樹の俳句は思想だと言うんですよ。イデオロギーと思想は違いますよ。
ましてや「魂の一行詩」というのはイデオロギーのプロパガンダとして存在しているわけじゃない。
かつて社会性俳句なんてお粗末なことが言われたけれど、社会主義に基づいた俳句が社会性俳句だと沢木欣一が言うわけです。
お粗末というか、それではプロパガンダでしかないんですよ。そのひとがけっきょく「風土」なんて雑誌を作るんだから、言ってることが違う。
 
金子兜太さんだっていまでは有季定型になっている。
本質を掴んでいればブレないのに、本質がわかっていないからブレまくるんですよ。ホトトギスの言ってることは骨董品を並べているようなものですよ、100もタブーを作っておいて「お手前拝見」と言われてもウンザリですよね。
うちの結社が口語でも新かなでもいいというのは、それは本質ではなくて、あくまで表現方法ですから。
 
(編集部)-形式によって左右されるものではないということですね。そうした前提においての句会というのはどういう雰囲気なのでしょうか?
 
角川-うちの弟子が面白いことを言うんですよ。自由になるのは実はものすごい大変なことだと、それまであった制約がいきなりなくなるというのはカルチャーショックみたいなんですね。一方で、毎月のように他結社を辞めてどんどんうちに入ってきている。
いままでいた結社は居心地もいいし、楽しかった。
 
だけども、これも中上が書いたことですが、うちの結社の句会は感性の斬り合い、殺し合いなんですよ。わたしも非常にピリピリしていますしね。
わたしは別に楽しいことは否定しないけれど、居心地がよくて楽しいだけでは詩は生まれてこない。
句会というのはもともと感性の斬り合いの場だったんだから。
 
(編集部)-それこそ斬り合いではないけれど、本質がさらけ出されてぶつかり合うわけですよね。
 
角川-わたしはあまり添削をしないけども、それでも二、三の句は添削する場合があります。
こうしたらもっとよくなるだろ、もっとこの問題を自分で考えろと、「自分で考えろ」という言い方をするんです。みんな緊張しきっていますよ。いままでの俳壇にはそういうカリスマがいなかったんですね。
 
わたしから何かを学ぶときに言葉を真似るところから入る場合もありますけど、基本的には自分の言葉で書けという。それもかなり厳しくやりますよ、わたしの真似じゃなくて自分の言語を持てないとしようがないんだから。
 
(編集部)-それは俳句に限らず、現代詩、短歌、あるいは小説も含めて文芸全体に対しても言えることだと思います。
 
(まだ続く…)

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