*現代俳句の新しい波…ユリイカ  インタビュー【角川春樹】vol.3*
 
 

(編集部)-それは俳句に限らず、現代詩、短歌、あるいは小説も含めて文芸全体に対しても言えることだと思います。
 
角川-わたしは短歌も詩も作りますよ。『現代詩手帖』に発表したこともあるけども、自分は詩人としてぜったいに負けないと思っている。現代詩でもなんでもいつでも挑戦を受けますよ。
誰かの詩とわたしの作品をふたつ並べて、一般の好きなひとでもいいし、読書人でもいい、10人いてどちらを選ぶかと言ったら、10人が10人わたしの詩を選びますよ。ぜんぜん違う。
やっぱり相手に突き刺さらない詩では意味がない。いまの現代詩もやっぱり四畳半と同じですよ。相手は本質しか感じませんよ。
 
それでは、わたしはなぜ五七五といういちばんの最小詩形を選んだかというと、世界最小の詩形でありながら世界最強の器だと思っているからです。短歌も現代詩も問題じゃない。わずか五七五音でぜんぶ凌いでやると。
西脇順三郎が俳句の魅力について一言だけ言っている。
『短いからいい』、そのとおりですよ。彼は短詩もけっこう多くて、長い詩の間にパッと一行で短い詩を載せたりしている。
 
(編集部)-なるほど。五七五という器の持つある種の強さの理由を感じられたような気がします。そのたった17音の宇宙とも言うべきものにあらゆるものが込められているんですね。
 
角川-五七五、あるいは五七五七七になぜ相手に訴える力があるのかというと、歌というのはもともと「訴える」から来ているんです。これは折口信夫の説ですが、わたしは正しいと思う。
 
それをもっと原型まで遡ると、それこそスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』じゃないけども、岩を叩くとか神卸ろしの方法論としての物を打つという行為から始まっているんじゃないか、これは中上が言い出したことだけれど、大変な慧眼だと思った。
 
「打つ」ということが「訴える」になり、ひとの心を打つ「詩(=うた)」になっていったと。だからひとの心を打たないものは詩ではないんだと。
 
いまの現代詩を読んでいても緩いんだ。詩は言葉遊びじゃないし、退屈なんだよね。なんでこんなに詩が堕落したんだろうと思いますよ。
海外の詩人たちは本当にすごいなと思うものをいくらでも出しているのに、日本はなぜこんなにダメになっちゃったんだろう。
 
(編集部)-詩は小説とは違う意味での長さを得る、あるいは長短による効果をそれぞれに発揮することができると思いますが、一度それこそ一行という単位に至るまで切り詰めていったところで何が起こるかといのは、それはそれで向き合ってみるべきものではあるのかもしれません。
 
角川-わたしは思潮社の小田久郎さんに日本一行詩協会とタイアップしないかと言ったことがありますよ。いまは俳句と短歌しかないから、詩人たちが短詩、一行詩を書くように喚起していくことも大事なんじゃないかと言ったけど、実現していない。
現代詩と一行詩の違うところは、現代詩は大きな意味での交響楽みたいなことができるんですよ。起承転結の結は別としても、起承転という流れのなかで、しかも象徴詩として考えていく。
 
わたしは別に新しいことを言ってるわけじゃないんですよ。それに自分の主張と作品は完全に不即不離ですから、そうでなければこういう運動は起こせないですからね。「魂の一行詩」というのは、いままでの自分の生き方さえ変えざるを得ないほど相手に迫るものだけども、それでもその魅力には勝てずにいままでの結社とは決別してうちの結社に入るひとがいる。
 
自分がやってきたことはなんだったのか、小手先の方法論や存在論に縋っていただけではないのか、そういう思いの果てに本質に立ち返る瞬間を求めているわけです。
「魂の一行詩」はそれだけの力を持っているものなんです。
 
 
黒き蝶ゴッホの耳を殺(そ)ぎに来る 角川春樹
捕陀落(ふだらく)といふまぼろしに酔芙蓉

(かどかわ はるき 俳人)2011.9月7日、角川春樹事務所にて収録
※捕陀落(ふだらく)とはインド南岸にあるとされる観世音菩薩の住む聖地であり、その信仰は日本にも伝わった。